「ペッグ崩壊」という賭けに勝算はあるのか
5月から6月にかけて「高度な自治」を認めた中国の一国二制度が「香港国家安全法」の成立によって揺らいでいることを受け、「香港ドルひいては香港の国際金融センターとしての地位は大丈夫なのか」という照会を頻繁に頂戴した。実際、5月28日に香港国家安全法が全国人民代表大会で承認されると、その前後でペッグ崩壊を懸念する思惑から香港ドルの対ドル1年物フォワードレートが変動域(7.75~7.85)の下限に迫る動きが見られた。もちろん、その際、スポット相場に大きな動揺が走ったわけではなく、フォワードレートもすぐに落ち着きを取り戻した。現状ではペッグ崩壊に賭けるゲームは鳴りを潜めていると言える。
しかし、結局、中国の態度次第で俄かに懸念が高まるのであれば、「今が盤石だから大丈夫」とは言い切れない難しさも残る。事実、一連の騒動を経てフォワードレートの水準は若干ではあるものの香港ドル安方向へシフトしたままである。
売り崩しは非現実的
ここで言う「ペッグ崩壊」とはいわゆる「一国二制度」の崩壊という政治イベントと概ね同義と考えられる。というのも、カレンシーボード制における香港ドルの安定性は折り紙付きであり、経済・金融面からその崩壊可能性を論じるのは無理があるからだ。現状、香港では香港金融管理局(HKMA)が香港ドルと米ドルを「1ドル=7.75~7.85香港ドル」の固定レートで交換する義務を負っている。具体的にカレンシーボード制では発行済み自国通貨(香港ドル)に対し100%同額の外貨を保有することになっている。
この点、現状に目をやると、香港のマネタリーベースの2倍以上、米ドルにして4400億ドル以上の外貨準備が保有されている。香港ドルを「投機的に売り崩す」という行為が成功するためには、この外貨準備から発生する香港ドル買いを全て吸収した上で、それを上回る香港ドル売りが必要になる。しかし、流動性の低い香港ドルをそれほど調達して売りを浴びせるのは、途中で発生する香港ドルの短期金利急騰を踏まえれば非現実的だ。余偉文HKMA総裁は6月2日、声明において「マネタリーベースの2倍以上にあたる4400億ドル(約48兆円)超の外貨準備を持っている」としているが、これを売り崩せない限り、市場参加者が正面からペッグを崩壊させることはできない。
「香港の利用価値」がいつまで続くか
しかし、近年の香港情勢を見る限り、経済・金融面からペッグの崩壊可能性を論じるよりも、政治面からそれを案じるのが現実的なのだろう。カレンシーボード制を礎とする香港ドル相場は一国二制度を大前提としている。そもそも自国通貨と外国通貨を等量保有して機械的に為替レートを管理するというカレンシーボード制の仕組み自体、「中国本土からの政治的・人為的な意思を混入させない」という意味で最善のシステムと評されることが多い。裏を返せば、制度ごと政治的に潰される展開こそが最大の脅威だ。
ポイントは中国本土にとっての「香港の利用価値」がどこまで続くかだろう。「高度な自治」が与えられている香港では中国語も英語も通じて、税制も国際的に競争力があり、法制度も英国流を受け継いでいる。こうした諸要因が絡み合って外資系企業と中国本土企業が最初に「接点」を持つ場所として利用価値が認められている。「国際金融センター」という枕詞も「高度な自治」の賜物だ。
こうした「一国二制度」の下で認められた「高度な自治」は香港が英国から中国に返還された1997年7月以降、50年間、すなわち2047年までは維持されることになっている。しかし、折り返し地点(2022年)が視野に入り始めている中、今回の騒動を例に出すまでもなく、「香港の中国化」は政治・経済・外交などあらゆる面でテーマに上がりやすくなっている。その度に香港の金融制度の象徴とも言えるカレンシーボード制の持続性に焦点は当たると考えられる。
なお、香港を取り巻く状況が不変でも、人民元の完全フロート化などに象徴されるような金融面での対外開放が中国本土で進めば、香港の相対的な魅力は低下する。香港に外資系企業との「接点」という存在意義がなくなれば中国本土が「一国二制度」を活かす余地は小さくなる。もちろん、上海や北京などの代表的な主要都市において香港と同等の金融取引が展開されるにはまだ時間がかかるのだろう。ゆえに、「一国二制度」の下での香港の利用価値はまだまだ残るはずだ。さらに言えば、利用価値を認めているからこそ、当地で発生しているデモを一気に潰して社会の不安定化が本格化するような対応は控えているのだと考えられる。中国政府(共産党)が民主化運動を是認する展開は殆ど望めないのだろうが、これを露骨に拒絶してしまうことで香港の魅力が劣化するような事態もまた望んでいないと考えられる。
中国本土と香港の双方がバランスよく魅力を維持して成長できるナローパスを探っているのが今の中国政府の胸中だと推測する。そうだとすれば、「国際金融センター」である香港繁栄の「要」とも言えるカレンシーボード制は当面、温存される公算が大きいと考えたい。
※本記事は個人的見解であり、筆者の所属組織とは無関係です。
唐鎌 大輔
2004年慶應義塾大学経済学部卒業後、JETRO入構、貿易投資白書の執筆などを務める。2006年からは日本経済研究センターへ出向し、日本経済の短期予測などを担当。その後、2007年からは欧州委員会経済金融総局(ベルギー)に出向し、年2回公表されるEU経済見通しの作成などに携わった。2008年10月より、みずほコーポレート銀行(現みずほ銀行)。著書に『欧州リスク: 日本化・円化・日銀化』(東洋経済新報社、14年7月)、『ECB 欧州中央銀行: 組織、戦略から銀行監督まで』(東洋経済新報社、17年11月)、『リブラの正体 GAFAは通貨を支配するのか?』(共著、日本経済新聞社出版、19年11月)。連載にロイター、東洋経済オンライン、ダイヤモンドオンライン、Business Insider、現代ビジネス(講談社)など。所属学会:日本EU学会。